本作はオリジナルの小説です。人物・店・出来事はすべてフィクションです。
千佳の丸いテーブルには、三か月前から一脚しか椅子がありません。もう一脚は壊れたのではなく、隣の部屋で洗濯物を引き受けています。
飲食店のメニューや案内文を整える仕事をしている千佳は、その日、夕方までに届くはずの修正を待っていました。画面には「少々お待ちください」の一行。その下で時計だけが、律儀に仕事をしています。
足元のトイプードル、ポコが立ち上がりました。千佳は「まだ来ないね」と声をかけましたが、ポコは時計にも画面にも興味を示さず、水を飲みに行きました。用事がはっきりしていて、うらやましいことです。
玄関のチャイムが鳴ったのは、七時を少し回ったころでした。
「お届け物です。受取人は、たぶん夕飯を忘れている人」
友人の真帆が、ふたをした鍋を両手で持って立っていました。千佳は先にポコを玄関から離れた部屋へ移し、扉を閉めてから真帆を迎えました。
「忘れてないよ。保留にしてるだけ」
「夕飯にも保留ってあるんだ。私の店なら、お客さん帰っちゃう」
真帆は小さな喫茶店で働いています。近くまで来たので寄ってもいいか、と連絡があったのを、千佳はすっかり忘れていました。忘れているものが、夕飯だけではなかったと分かります。
鍋には、真帆が自宅で作った人用のスープが入っていました。千佳は手を洗い、棚から器を二つ出します。湯気が上がったところで、テーブルの上に空いている場所がないことに気づきました。
校正紙、充電器、使いかけの付箋。丸いテーブルの形を確かめられるのは、縁のわずかな部分だけです。
「ここ、何人用?」
「買うときは二人用って書いてあった」
「今は、書類が二人住んでるね」
千佳は紙をひとまとめにし、仕事用の箱へ移しました。真帆は鍋を置ける場所を拭いています。二人で手を動かすと、木目の輪が、久しぶりに端から端までつながりました。
けれど、椅子がありません。
隣の部屋から持ってきた一脚には、乾いた靴下とタオルが積まれていました。千佳がまとめて抱えると、真帆は背もたれを確かめながら言いました。
「立派な管理職だったんだ、この椅子」
「明日から担当を減らします」
千佳は洗濯物をかごに戻し、椅子をテーブルへ寄せました。二つの器を置くと、意外なほど、まだ場所があります。
「それで、返事は?」
「まだ。来たらすぐ直さなきゃと思って」
真帆はスプーンを持ったまま、千佳の顔を見ました。
「今日中って約束したの?」
「してない。でも、遅い時間に送ってくるかもしれないし」
言い終わってから千佳は、自分が約束していない時刻を、ずっと守ろうとしていたことに気づきました。
テーブルの端に置いたスマートフォンが光ります。修正を送れるのは明日になる、という連絡でした。千佳は画面を見て、それから器を見ました。
「明日の確認時刻、聞いてみる」
短い返事を送り、手帳に翌朝の予定を書きます。いつでも待つ代わりに、明日の午前中に確認する。その一行なら、自分にも相手にも読めます。
ポコは、部屋の扉を開けると真帆の靴下のにおいを確かめ、やがて床のクッションへ戻りました。人の食事は届かないテーブルの上にあり、ポコには、いつものごはんと別の器があります。
「あの子、接客が簡潔だね」
「必要な確認が済んだんだと思う」
ポコは二人の返事を待つことなく、丸くなりました。
千佳がスープをひと口飲むと、まだ温かさが残っていました。急いで答えを出さなくてもいい話が、真帆との間を少しずつ行き来します。新しく買った靴のこと、喫茶店に忘れられた傘のこと。二本の傘が同じ日に同じ人のものだと分かった話で、千佳はスプーンを置いて笑いました。
帰り際、真帆が二脚目の椅子を指しました。
「また、洗濯物の担当に戻る?」
「兼任かな。でも、夕飯の時間は空けておく」
玄関を閉めて、千佳は鍋の残りを片づけました。テーブルを拭き、二脚の椅子を戻します。明日の仕事がなくなったわけではありません。けれど、仕事を待つ場所と、夕飯を食べる場所は、同じテーブルの上でも分けられそうでした。
ポコがクッションの上で体の向きを変えます。千佳も自分の椅子を少し引き、読みかけの本を開きました。
丸いテーブルには、一人分の本と、もう一人が座れるだけの余白が残っています。
MOGPOKKE for Pets 編集部が記事を作成しました。
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